すばらしき世界

なんだか喉が痛いなと思ったのはバレンタインの前夜だった。そして今朝目を覚ますと扁桃腺が腫れて咳がごほごほ。それでも仕事へ出かけなくてはと朝の支度をするうちに、腰や膝の関節がじーんと熱を持って痛んでくる。やばい、風邪が本気だしてやがるぜ。
仕事もそこそこにして、保険証を片手に家からいちばん近い病院へと向かう。今の住まいに移ってから初めての通院。いつも歩いてる道にある医院へ向かうと、看板にしっかりと「小児科」と書いてある。うーむ! ・・・仕方がないのでいったん家へと引き返すと、偶然にも家からわずか数ブロックの所に内科を発見。小さな医院だけど、迷わず飛び込む。
待合室には70代とおぼしきお爺さんがひとり囲碁の雑誌を読んでいた。病院の門構えは新たに建て増しされて内装も綺麗に新調されてるけど、建物をよくみるとどこか昭和のかおりが残る古いものだった。受付の窓ごしに「初めてなのですが、風邪をひいたみたいで・・・」と告げつつ保険証を見せると、受付カウンタの向こうから大貫妙子似の看護婦さんが出てきて「あちらの奥も待合室ですから、そこでこの体温計を脇にはさんでお待ちくださいね。歩けるかしら?」。
通された待合室には大きな窓と古い長椅子があって、窓際にはピンク色のシクラメンの鉢植え。窓の向こうには(あくまでガーデニングなんてものではなく)古きよき日本の庭があった。梅がちらほらと咲くその下で、きじとらの猫がゆっくりと歩いてゆく。鳥たちがチチチと飛んでは枝に止まり、またどこかへ飛んでゆく。待合室にはBGMはなく、診察室からかすかに話し声が聞こえるだけ。窓から差し込む陽が長椅子を照らし、静かに暖かい。なんとまあ平穏でゆったりと時間がながれてるんだろう。しばし具合の悪さも時間も忘れ、待たされるだろうと用意していた本も開かず、窓の外のきじとら猫が日なたで鳥を眺めているのをぼんやり見ていた。
いつの間にか待合室で囲碁雑誌を読んでいたお爺さんが診察を終え、大貫妙子似の看護婦さんが私を呼ぶ。案内されるままに診察室のドアを開けると、そこには使い込んだ感じの大きな机に小さな椅子。木製の古い棚には表紙が陽にやけた本や顕微鏡が並んでいた。「そちらの台に荷物を置いてください」といわれた台には手製らしきレースのカバーがかけてある。「今日はどうしましたか」とこちらを向いたのは石丸謙二郎似のドクター(なにより声がそっくりだった)。そこへ奥から先ほどの大貫妙子似の看護婦さんが「熱は8度5分でした」とひとこと。この医院にはこのふたりしかおらず、おそらく夫婦なのだろうと私は思った。そんなやりとりだった。
「風邪らしい症状以外にも、心配なことはありますか」と石丸似のドクターはカルテにペンを走らせながら言う。落ち着いた雰囲気に打ち解けてしまったせいか、以前から気になっていたことを相談してみると、内科診療ではないのにもかかわらず穏やかな調子で診断をしてくれた。薬も出してくれるそうだ。
病院にかかるなんて本当に久しぶりで、多少の不調ならドラッグストアの薬を飲んでなんとかしてしまっていた。病院なんて待たされるばかりで、陰気な顔をした患者ばかりの待合室で時間をすごすのも、流れ作業でぶっきらぼうに診察を受けるしかないのも嫌で嫌で仕方が無かった。病院なんてそんなものだといつのまにか諦めたまま医者ぎらいになっていたのかもしれない。
支払いを済ませてスリッパを脱ぐと、他の人の靴と一緒に私の靴がきちんと揃えられていた。診療中に大貫妙子似のナースがささっと揃えたのかもしれない。外にでると日差しがぽかぽかと暖かい。頭も体も重くてつらかったけど、なんだか不思議な安心感がある。(勉強が苦手じゃないほうの)「What a Wonderful World」をなんとなく思い出しながらふらふらと家へ戻ってゆく。
 
待合室で待ってる間はこんな感じのワンダフル・ワールドだったんだけど

でも体調の悪さから言うとこんな感じのワンダフル・ワールドだったよ・・・